昭和54年08月14日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
此方の道というわけ。此方の道という道はどういう道だろう。思うてみなければいけません。だから、此方の道を私共が体得する。教祖金光大神その人を御自身、此方と呼ばれたわけでしょうね。いうなら私が教えておる、道は傘一本で開けるんだと、いうふうに頂いたらいいでしょうね。それで私が教えておるその道といわれる道を、私共が体得するという事は。
昨日、高松和子先生が頂いた、お知らせに頂いたという、「心の道」という事を頂いておる。心にも道がある。その道づけに従ってのいわば心。その心がその軌道に乗った生き方をさしてもらう所から、いわゆる心一つで総てを創るような働きもね、おかげは和賀心にありという、おかげにもつながって来る訳です。心の道を私共が辿らせて頂くという事は、それは金光教ではそのまま天地への交流の道、天地の大道に出られる道。まぁ大道というかね。天地の道といったらよいでしょうね。
天地の大道というて、その大きなね道という意味じぁないんです。自分一人やっとしか通れんと言う様などころだってあるんです。天地へ通う程しの道がついてくるのが、金光教そうおっしゃる此方の道です。だからその此方の道をたどらせて頂きながら、天地との交流、いうならば、神様との交流がなされないようならば、これはちょっとおかしい事になるんです。
昨日十三日会で、若先生がお話をしとりましたが、此方の道は神と仲ようする信心とこう仰る。その神様と仲ようなる、出来るだけ神に近づくようにせよといわれるが、神からだんだん遠ざかっていく。仲ようするどころではない。その仲がだんだん離れていく。断絶とはならんでも、西の方へ行けば間違いないという道を、東の方へ行っておる感じがするという事を話しておりました。確かにそうだなぁとこう思いますね。
昨日一人一人、本当内容のあるというか、頂いとっておかげを頂くようなお話ばっかり沢山ございましたが、その中に圭奈子修行生が発表しとりました。こちらへ行く前からずっと、足の怪我がどうか、まぁ大変ひどくなって、もう3本部へ行く前までやっと、人の手を借りて行かねばならほどに大変悪かったのです。あちらに行ってもずっと悪かったんです。それで私は、あのね、医者に診せるとか、又は薬を飲むとかもいいけどね、お道の取次者としてのおかげを頂く為には。
これはいうならば、あのう商売人がお店を開く時に、やはり資本がなからねば開けないようにね、元手だよやはり資本だと。自分の身の上にふりかかってくる様々な難儀をおかげで助かりました。神様のおかげで助かりましたと、いうそれがもとでなんだ。それにあの薬は効きましたよと、あの人に縋りましたらこげな風になりましたでは、助かりようがないじぁないかと。
おかげを頂いて、一心にお取次ぎを頂いておかげを頂いただけじぁない、おかげを頂いた時には、既に私の心の中にその足の怪我なら足の怪我を通して、こういう尊いものも頂きましたというて、始めて神様の心が分かったという事になり、神様の心に添うたという事になるんだ。それでまぁ辛抱し抜かせて頂いたけども、やっぱりあちらでもあんまり痛むもんですから、あちらでお取次の先生にお願いをしてその事をお願いした。
そしたらその先生がいわれる事は、あなたの親先生、あなたの親先生を大きくする事も小さくする事も、あなたのその事によってです。親先生を大きくするか小さくするかという事です。あなたの信心次第です、というお取次を頂いたとこういうのです。それでまぁ考えたんですね。どういうふうな生き方をさせて頂いたが、親先生を大きく現す事になるのかとこう思うた。
これはやはり医者や薬やらとはいうてはならない。こりゃもうどこまでも一つ信心によっておかげを頂かねばならんと腹を決めて、今月今日この様なおかげを頂いておるという話をしておりました。今の教団で例えば大きな信心というのはね、私共の様に薬は毒だよ、薬は飲んではいけませんよ、いうならば毒が薬に変ずる様な、その祈り願いをもって、飲まにゃあいけませんよ。人に頼っちゃいけんよ、縋っちゃいけんよ、もう縋る所は神様一本だよと、そういう生き方を小さな信心の様にいう傾向があるんです。
はぁ金光教の信心は、そりゃもう薬も飲んでええ、医者にもかかってええ、そういうような成程いいんです。御教えにも「薬れ祈れにするからおかげにならん、祈れ薬れにすればおかげになる」と仰っておられる。だから祈りをともに、いうならばここでいわれるどうぞ毒薬変じて薬になりますようにと、祈りをもって頂くという事は、素晴らしいいうならおかげを頂く事になるし、自分の信不信の問題である。神様をどれだけ信じておるか、どれだけ頂いておるかという問題なんだ。
だから、それはその過程ですから、あのうねお薬を頂かせてもらう。なら神様にお供えしてお下がりを頂くような気持ちで、そしてあの薬が効いたじぁなくて、神様のおかげを頂いてと言う様な頂き方。ところがこれはね、今日の御理解からいうと神様をいうならば、身近かに頂くではなくて、神様を遠いところに置いたような感じがする。痒いところをじかにかくのではなくて、何か着物の上から掻いたような、いうならば信心のおかげの実感というものがそうなんです。
だから信心は真に有り難いという心を求めてですから、実感として真に有り難いと頂けた時に、いうならば神様との交流の道が付けられて来るんです。ですからこれは今申しましすように、信、不信の問題ですからどちらを私共信心如何によって、それを何かそういう生き方を、大きな信心のような考え方をするところを、昨日若先生がいうておりましたらうにね、西に行かねばならないのを東に行っておるような感じ。
神と仲ようする信心というのに、神様から断絶するになりはせんかと断絶にひんしておるような、いうならばお道の信心をしておる教会やら、人やら沢山でけてきたという意味の事をいうておりました。昨日お話の中でに、合楽で本気で信心の稽古をさせて頂いて、もう神様のおかげを頂くより外に手はないと、いうならば悟れるというか、それを実感する、まぁ日参みなさんなさっておられますが、まさに何かそうでしょう。それに神様にいうならば、お縋りするより外に手がないのじゃなくて。
やっぱり人にも頼る。薬にも頼る。と言う様なあのう時代から、もう本当に自分の無力さ加減といものを悟らせてもろうて、神様のおかげ頂くより外に手はないという、実験、実証によってそれを、確固たるものにしていく。そこに至った時にです、始めて此方の道がはっきりしてきた時だと思います。此方の道は、傘一本で開ける道。だから皆さんの場合はそこまでの信心ができたから。
なら例えばそれを、家内にも同じ思いでおれるか、子供も同じ思いでおれるか。という事になった時に、もう本当に神様のおかげ頂くより外に手ははないですねと、家族中がいえるか、思えれるようになった時に、私は神様があの氏子の家は安心だという事になるのじぁないでしょうか。神様があの氏子の、あの氏子の家はもう安心だと。例えばなら昨日とりすの事を、久富繁雄さんのお宅の事で、まぁそれこそ素晴らしい一家をあげて信心をさしてもらう。又、あぁいう実意な信心をなさっておられる。
例えば合楽にどれだけ御用に打ち込んで、何日間も家をあけられる事があっても、それをとやこういうもんおらんという程しに、一家をあげて信心しとるから、もうこの家はもう大丈夫だと、神様がそれでも安心はしてござらんという事。久富繁雄その人の上には、神様が安心してござるけれども、久富繁雄一家の上には安心してござらん。まぁだ嫁御がどげなふうに狂うやら分からん。息子もあれだけ松学会に入って、あぁして一生懸命信心しょるばってん、まぁだ間違いなかろうと思うばってんまぁだ分からん。
そういう事を私が思わせて頂いとったら、国雄さんといいますが長男が。大きなあの浮袋ですね、浮袋の大きな中に入って泳いでおる所を頂く。まぁだ本当の泳ぎが出来ていない。浮袋に頼ってようやく泳いでおる程度だから、浮袋を外して泳げる所まで、子供の信心が成長しなければ、久富一家は安心という事にはならない。神様が安心して下さるその安心が私共に通うてくる、それが私共の心の上にもいわば安心という事になる。傘一本という事は私は安心という事だと思う。
一本の傘を持っとればどんなに、もう今にも降りそうであっても慌てんですむでしょうが、傘を持たんから走り出して行かんならん。さぁどげん降るじぁろか。なら濡れちゃならんと思うてばたばたせんならん。傘という事は、此方の道は安心の境地を開かせて頂いたらもう、傘一本その安心の心一つで道は開けるぞと教えておられるのです。それに私共がどうでもだから、心の道を求めなければなりません。というてです。
ずうっと言うなら延べつ幕なしに、もうお恵みからお恵みに、さぁあのう自分の都合のええこつばっかり起きて来るとむせてしまいます人間というものは。例えばあのラムネなんかを飲む時に、玉がこうひっかかりましょう、だから丁度いいのです。あれがガバーっとこう入ったら、それこそむせかえってしまいます。それこそ一日の中に何回でもいいじぁないですか。引っ掛かる所があっても。
どうもあの事が引っ掛かってしかたがない。そこで神様へ向かう。向かうそすとこれがスッキッ と取れる様な感じがする。心配がある。だからこそ神様へ本気で向かう。そこからはぁ本当に心配。もうそれこそ、例えそれが右になっても、左になっても神様のおかげを頂かねば、立ち行かんのであるからという心が頂けてくる。だから信心して徳を受けたから引っ掛からん事はない。引っ掛かる事があるのだけれども、神様へ向かう度にいうならば、神様のおかげ頂かねば立ちゆかん。
もう神様のおかげ頂くより手はないと、心の中に頂けてておりますから、そういう引っ掛かる事があっても心配があっても、神様へ向かっていくばぁっかりである。だからここん所を頂いとりませんと引っ掛かる時に、誰に頼まんならん、引っ掛かる時にいうなら人間心使わんならん事になる。だから私共がね、そういう心の道をそういう時にでも、いわゆる心一つで総てを創るという、その心の状態にならせて頂く事に、心が向いた時に始めて、一人泳ぎが出来る様になった時じゃないだろうかとこう思うです。
問題は一人泳ぎが出来る様になった時にです、神様が安心して下さる。その安心が私共の上に照り返ってくる。いつも自分の心の中に、一本の傘を持ち続けて行く事ができる。どういういうなら雨模様になっていても、一つも慌てんで済む、どんなに心に引っ掛かる様な事があってもね、お願いをしお取次を頂いたら、心に安らぎが生まれてくる。そして願った事は右左はもう問題じぁない、そこからのおかげが頂けれるんだ、そこから道がつくんだと。
昨日信徒会長が話しとりましたように、もう椛目合楽を通して教会の上にも、いつも問題は有り続けてきた。ところが合楽の場合は問題がある度に、おかげを頂いてきたという意味の事を言ってましたですね。問題はあるんです。あるからこそ信心が進むんです 問題のたんびんに一回り信心が大きく育っていくんです。それはならそういう時にあれに頼みこれに頼みではなくて。
神様一途にお縋りしてゆくところから、どういうそれが問題であっても、この問題を乗り越えた時には、新たな力を頂けるんだと、信じれる心を私は傘一本だというふうに思う。それが安心の心だと。なら安心の心の中には引っ掛かる事もなければ、心配になる事もないかというとあるんです。けどもその心配がその不安が神様のおかげによって、よりおかげが受けられると、いわゆる実験、実証それを積み重ねて行く所に、なる程此方の道は傘一本で開ける道だ。
そこまで至った時に、そういう信心が家族中で出来た時に、始めてあの人はもう大丈夫だと、神様が思召すだけじぁなくて、あの家庭は大丈夫だと、そこに至った時に、その信心は子より孫、孫よりも又次に広がっていけれる信心の、いうならば力というかお徳というものが、備わった時だというふうに思います。だからそこまでは、皆さん目指さねばいけんという事。私だけが喜んでおれる、私だけが安心しておれるじゃなくて、それが家族中の者が、その一線上に出れるところまで信心を進めたいですね。
どうぞ。